町の車屋、柴田自動車とは

車が大好きだった男の話

 昭和25年、鳥取県に生まれた柴田賢治は、幼少の頃から動くものが大好きで、高校を卒業と同時に岐阜県の中日本自動車短期大学に進学。卒業後は同大学で講師として働き、25歳の時、念願だった自動車屋を坂祝町で開業。柴田自動車商会として車業を営む傍ら、大好きだったレースの世界にどっぷりはまりました。

 「俺のお客さんは、俺が守る」が信念で、24時間365日、雨がふろうが、雪がふろうが、いつでもどこでも、困っているお客さんがいれば助けにいく、そういう男でした。

37歳の時、夜中に事故をしたお客さんを助けに行ったとき、レッカー作業中に暴走車両にはねられ、救急車で運ばれました。警察から連絡があり、おかんと一緒に病院に行ったら、そこには変わり果てたおやじの姿がありました。数日後、奇跡的に意識が戻りましたが、なくなった左足部分を見て、おやじはおかんに泣きながら言いました。

「俺の足がなくなっちゃった。」



 それから片足になったおやじは、退院後、片足でぴょんぴょんしながら仕事をしました。困ったお客さんがいれば、いつでも出動して、お客さんを助けに行きました。まだ中学生だった俺は「もう行かないで!」と言ったことがありますが、おやじは俺にいいました。「俺のお客さんは、俺しか守れないんだ。」それを聞いたとき、おやじは、かっこいいし、車屋ってすげぇ仕事なんだなと思った記憶があります。俺も大人になったら、車屋になるんだと、そう思いました。



 ただ、おやじは片足がなくなったので、大好きな鈴鹿を走ることが出来なくなりました。俺は、子供心に、大きくなったらレーシングカーを作ろう!おやじと一緒に鈴鹿を走りたい!それが、俺の生きる目的で夢になりました。

それから23年後、おやじの60歳の誕生日に還暦祝いで「レーシングカー」を作ってプレゼントしました。鈴鹿サーキットを貸し切ってイベントをして、ついに俺の長年の夢が叶いました!
 おやじは、久しぶりの鈴鹿が、本当にうれしそうでした。あの頃のように、全開で走っていました。俺は、生まれて初めておやじと一緒に鈴鹿を走りました。ホームストレートを一緒に駆け抜けたときは、いろんな思いがこみ上げてきて、涙が止まりませんでした。




 俺はイベントの最後に、おやじに花束を渡し「俺を車屋に育ててくれてありがとう」そう伝えることが出来ました。その年、鈴鹿を皮切りに、日本全国の国際サーキットを全部貸し切ってイベントをしました。おやじとおかんを連れてツアーをしました。うちのお客さんも一緒に盛り上げてくれて、1年で参加者が1000人を超える大きなイベントとなりました。

 おやじは、晩年、鈴鹿サーキットを走ることを趣味とし、俺の作ったレーシングカーを積車に載せて、鈴鹿に走りにいっていました。

 この話には、後日談があります。

 最初から最後まで全開でしか走れないおやじは、エンジンやオートマをよく壊しました。俺は、おやじに「クーリング走行をして、壊さないように走らないかんよ!」と言いました。そしたら、おやじは言いました。



「俺はサーキットでアクセルをゆめるなんて出来ない。全開で走れないなら、鈴鹿はもう走らん。」



 なんということを言い出すんだと思いましたが、俺たちにもスカイラインを長年チューニングしてきた意地がありますので、おやじが全開で走り続けても壊れないマシン作りが命題となり通常の仕事をしながら、おやじのマシン作りをしました。

 2014年夏、富士スピードウェイでレースを開催し、おやじも出場しました。おやじは、最初から最後まで全開で走りきりました。

 車は壊れませんでした。

 「いい車を作ったな」と言われ、このレースが終わった時、おやじは俺に「車屋」を託し世代交代をしました。

 そして、これがおやじの最後のレースとなりました。


 俺は、町の車屋の息子として生まれ、普通の車屋とは少し違った環境で育ちました。大学を卒業して後継ぎとして、柴田自動車に就職するも、好きなことをやればいいと、スカイラインの専門店をやることに賛成してくれ、応援してくれました。

 俺は、おやじと一緒に過ごした20年の間、おやじから多くのことを学びました。本当にしゃべらない口数の少ない男でした。ありがたい話も聞いたことないし、過去の栄光の自慢話も、1度も聞いたことがありません。言葉ではなく、生き様で、生き方で、俺はおやじの背中から多くのことを学びました。

 ■「自分の客は、自分で守れ。」それが出来ないなら車屋をやるな。

 ■「アクセル全開で走れる車を作れ。」それがメカニックとしてのプライドだ。

 ■「常に全力で生きろ。」それが男としての生き方だ。

 柴田自動車は、昭和の匂いが残る、腕っぷし一つで勝負するような、男気の溢れる車屋です。我々が目指したい会社の姿はまさにおやじの「魂」であった「俺のお客さんは、俺が守る」の精神であります。これは単に、事故があったときや故障した時に、レッカーで助けにいくという意味ではありません。皆様の愛車というものを通して、そのお客様との生涯を共に歩んでいくというスタンスです。新車・中古車の購入から、車検、整備、チューニングなどの技術的なところから、自動車保険、生命保険など、万が一の時の為に備えることから、すべてを任せて頂き、豊富な知識と経験とアイディアで、何かあれば電話一本で即対応できる、そんな「安心感のある車屋」をこれからも続けていきたいと思います。

 柴田自動車は、町の車屋にプラスして、レース屋の技術も持ち合わせております。一般的な町の車屋やディーラーでは対応できない車も取扱いができます。地元のおじーちゃんの軽トラから、レーシングカーまで幅広く対応できます。特に80年代の車や30以降のスカイライン全般、チューニングカーについては、高いレベルでノウハウと技術と部品を持っています。実際に多くのメーカーと業務提携をし世界的なレースにも参戦しておりますので、その実力は確かなものだと思っています。

 ある意味、このような男くさい油っぽい町の車屋は、今の日本では珍しくなっており、車を愛するユーザーさんにとって、うちが最後の砦だと思っております。これから、柴田自動車の2代目として、地元のお客様、日本中の柴田自動車、R31HOUSEのファンの皆様の為に、おやじからもらった「魂」のバトンを引き継いで、親父が作り上げた「柴田自動車という生き方」に恥じぬよう、スタッフ一丸となって、全力で生きていきますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。


柴田自動車株式会社 2代目 柴田達寛

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